水色書架

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春はきぬ

背を丸め、両手にバッグと夕飯の食材を買ってつめこんだ手提げを持った女が足取り重く歩いていた。春の夕暮れどきは肌寒いというより体を縮めずにはいられない冷え込みで、体の節々にまで沁み渡るようだ。年齢を感じずにはいられない。初老というのであろうか、女は決して若くはなく、老けていた。

ときどき女は自分の年齢を間違えてしまう。人に年齢を問われて実年齢より10才多めに答えそうになるのだ。呆けているのかといえばそうではなく、彼女自身がとっくの昔に枯れてしまったと感じているせいだ。

一人分だけの食材しか入っていない手提げが彼女の痩せて静脈が浮き出ている手に重みがかかる。一歩進むたび、膝に針を刺されるような痛みが走る。風邪以外の大病はしたことはないが体の衰えは嫌というほど感じていた。

膝の手術を受けた方がいいと医者にも言われていたが、頑として彼女は拒み、痛み止めの注射をするだけでしのいできた。年を経るとはこういうことだと自分に言い聞かせて。

腰を庇うように曲げてとぼとぼと歩くことに専念していた女は、薄暗がりの視野の中に明るい霞が見えた気がして、首だけ上向けた。ちょうど大きな公園の一角を通り過ぎる辺りだったのだが、公園の敷地からはみ出さんばかりに枝を張った満開の桜がそこにはあった。

思わず女が乾いた声を発した。

「ああ、春が来たのね。」

感嘆でも喜びでもなく、感情を忘れて反射的に出た言葉だった。

「春が来たのね。」

まるで女の独り言をこだまするように頭の中で別の声が響いた。その瞬間、女は身震いした。思わず片方の手に持っていたバッグを落とすほどに。そして憎々しげにぽつりと漏らした。

「おかあさん」

脳裏に浮かぶのは、昨年亡くなったその声の人物の姿だった。女よりもっと高齢の老女、だが、そのわりには目鼻立ちのしっかりした派手な顔で皺も目立たない、大柄な人物であり威圧感すら覚える。

この幻の老女は女にとっての母親だ。ただし実の母親ではない。彼女の育ての親だった。そして彼女の人生の大半をこの老女に費やしてもきた。

満開の桜を前にして女はたじろぐように数歩後ずさりした。春には必ず桜の開花を楽しみにしていた義理の母親と花見にきたものだ。

「今年の桜は今年しか見られないのだから。」

それが継母の口癖で、否応もなく連れ立って見に行くのが恒例だった。

実の母親を早くに亡くし、後妻にきた継母は厳しい人でまだほんの子どもだった女にも容赦はなかった。彼女は継母のことを心の内で魔女と呼んでいた。50年、なぜこの魔女と暮らしてきたのか、いや、暮らせてきたのか。魔女は血のつながりのない女を子分のように扱い、指図し、従えてきた。虐待されるでもなく怒鳴られるわけでもなかったが、魔女は心の内を見透かすように弱いところを突き、暗示をかけ、本人の意志を挫けさせてきた。逆らうことのできない威厳のようなものがあったのだ。

女も若いときは魔女に逆らおうともがいてきた。離れようと何度も試みてきた。しかし逃れることはできなかった。世間知らずだったために女の試みはことごとく失敗し、離婚を経験し、借金に追われたこともあり、それを率先して救ってくれたのは魔女だった。正しく言うなら、女は魔女にしか頼ることができなかったのだ。しみじみ女は自分に何の能力もないと気付かされ無力を感じていた。

女はいつしか魔女への抵抗をやめた。恩義もあるが、それ以上に無気力になった。少なくとも魔女の傍にいればよけいないざこざもなく、我慢して従順にしていれば生活は保障された。こうして親元を離れることなく、女は実の父が亡くなるまで継母を手伝って介護し、看取り、やがて継母も年老いて、いうことのきかなくなった体を支え続けてきた。

なんのために生まれてきたのだろう、と女は思い続けてきた。さまざまな挫折を繰り返すたびに、魔女の庇護を受けてきた自分自身の甘さも後悔している。巣立たねばならなかったはずの古巣が窮屈であっても、外で一人で立ち向かうことのできなかった弱さをたった独りになった今になってようやく思い知る。

女は落としたバッグを拾い上げようとゆっくり腰を曲げて屈んだ。不意に何か動くものが目に入ったのでそちらに目を向けると、金色の瞳をした黒猫だった。公園の中から出てきたらしい。女の前を急ぎ足に横切り、立ち止まってまた振り向いた。

「しっしっ。あっちへお行き。」

女は手で追い払うしぐさをした。猫は驚いたふうでもなく、長いしっぽをくねらせたかと思うと道の向こうへと消えて行った。

女は動物が嫌いというわけではなかった。ただ、継母が迷信を頑なに信じていてそれを思い出したのだ。

「黒猫が前を横切ると縁起が悪い。」

魔女のはずなのにおかしなことを言うと女は思ったものだった。

バッグを拾い上げると曲げた膝が痛み、顔をしかめた。そして、その痛む足を引きずるようにして桜から遠ざかり始めた。すると今度は人の声が追いかけてきた。

「ちょっと、あなた。」

女はゆっくりと振り向いた。声の主は小柄でふっくらした上品な老女だった。

「これを落とされたのじゃありません?」

にこにこと親しみのある笑顔で片手を差し出した。その手にあるのは小さながま口財布だ。女は後戻りして礼を言いながら受け取った。

「桜に見とれていらっしゃって落し物に気づかなかったのですね。」

品の良い老女がやさしげに言った。はいと頷きながら、魔女とは対照的な老女だと女は心の内で呟いた。

「桜が毎年開花するたびに、春がきたと実感しますわね。」

小柄な女性がまるで背伸びでもするかのようにしゃんと伸び上がって桜を見上げた。

まただと女は思った。どうして桜の開花はこうも春の到来を誰の目にも強い印象を残すものなのかと。圧倒的な花々の数は惑わせる魔性そのものではないかと女は顔を背けた。

魔女の晩年は大柄な体を支える脚もすっかり弱くなり、車椅子生活だった。女が車椅子を押し、介護してきた。横柄な命令口調は相変わらずだったが、ヘルパーよりも細かな要求に応えられる女を頼りにしていたともいえる。やがてはゆるやかに認知症になって物忘れがひどくなり、粗相をすることもあった。あの居丈高な魔女がひとまわり小さくなったように感じた。それでも女の名前も顔も忘れることはなかった。そして、春になると花見に行くことも。

日和のよい日に満開の桜の下へ連れ出していくと、必ず感嘆のため息をついて、魔女が言う。

「ああ、春が来たのね。」

女が傍にいることも忘れて満開の花と風に流されていく花びらに魅入っていく。

女は回想を振り切って、もうあの魔女はいないのだと強く念じた。

「もう自由だわ。」

女は口を開いたはずもないのに声だけが満開の桜から聞こえてはっとした。

「もう寒さで固く閉じていた花も自由になったのね。」

また聞こえた。よくよく耳を澄ませば、目の前の小柄な女性が桜に向かって語りかけていたのだった。

「自由。」

女が鸚鵡返しに口にした。

そうなのか、これが自由なのかと女は急に目覚めた。固まっていた蕾が冬の鎖からほどけて桜の花たちが自由になったというのか。魔女の縛りが突然なくなってふわふわと不安定に浮遊していた自分はもう自由を得ていたのだ。

女はやっと目の前の桜の花をまともに見た。すると、うすぼんやりした桜色の靄だったものが一つ一つの命の顔をして現れてきた。五枚のかわいらしい花弁が小刻みに空気の中で揺れているのさえはっきりと見て取れる。それを初めて愛しく感じた。と同時に、女は体の痛みも忘れて熱いものが胸の中に湧き出してくるのも感じた。

「自由なんだわ。」

女が確信したように言葉にすると、小柄な老女が微笑みかけて大きく頷いている。

女は財布を拾ってくれたお礼をもう一度言うとさよならを告げて歩き出した。相手もまた別れの言葉を返し、まだ桜の前から離れる気配はなかった。

「私は自由。」

呪文のように唱え、女の足取りはさっきよりは軽やかになっていた。

女とすれ違うように向こう側から車が一台やってきて、ゆっくりと止まった。車の中には中年を過ぎた夫婦らしき男女が乗っていて、助手席から女が出てきて叫んだ。

「おかあさん!」

背後の離れたところから聞こえた声に驚いて女が振り返った。しかしそれは女に向けられたものではなく、先ほどの品の良い老女への声掛けだった。

「探し回ったのよ、おかあさん!」

運転席からも男がでてきた。

「見つかったかい? ああ、よかった。心配したよ。」

中年の女性が年老いた母親に駆け寄っているのが女の目からもよく見えた。あの慌てふためきようは、まるで昔の自分を見ているようで、はたと気づいた。魔女が車椅子に乗ったまま迷子になったことがあった。少し目を離した隙に女を探して施設から飛び出したことがあったのだ。

あの小柄な老女はとてもそんなふうには見えなくてもやはり魔女と同じように、記憶があいまいになって一人さまよってここへ来たのだろう。

いつか自分もそうなるのだろうかと一抹の不安な予感がよぎりつつも、確かにつかんだ自由というものを今しばらくは取りとめておきたいと願った。


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ジャンル : 小説・文学
テーマ : 自作小説

[ 2016/03/06 04:11 ] ≪黒猫お散歩通り≫ | TB(-) | CM(-)