水色書架

自作の一般向け現代小説を書いています。長編短編をご用意しております。
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息吹

降り注ぐ春の日の光は明るいが、ベランダの窓から入り込む空気は冷たい。近くの公園では蕾をたくさんつけて開花を待ちわびる桜の木々が立ち並んでいる。季節の移り変わりを感じながら、トシエは皺のある手でガラスの戸をぴたりと閉めた。

「少しは空気の入れ替えもできたかしら。
 寒くなかった、ノブヒロ?」

窓際のベッドに横たわった息子に呼びかけた。ノブヒロはじっとしたままである。唇を動かすこともなく、ただ目は薄く開いたままガラス窓を見つめている。いや、ほんとうに見つめているかどうかは母親のトシエにもわからなかった。きっとそうに違いないという希望が入り混じっているのは否めない。ベッドの傾斜を少し起こすように調節しながら、しげしげと息子を観察した。機嫌は悪くなさそうだ。

ノブヒロが寝たきりになって何年たったことやら、とトシエは思い返す。

「もうすぐ8年になるのね。」

そう、あれは彼が高校生のときだった。部活を終えて帰宅途中の事故だった。二台の自動車が衝突し、その反動で一台がノブヒロの乗っていた自転車にぶつかり、彼は跳ね飛ばされた。一命はどうにか取りとめたものの、脊髄にも脳にも大きくダメージを受け、意識障害となって寝たきりになったのだ。

体格もがっしりして、毎日の部活で日に焼け、人一倍健康的な高校生だった。よく通る元気のよい声で快活だった息子が、どうしてこんなふうに静かに横たわっているのだろうと、いまだに信じられない。季節は何度もめぐりめぐってゆくのに、トシエの中では時が止まっている。

部屋の書棚には写真立てがいくつかあり、部活でサッカーをしていた頃のユニフォーム姿の息子の写真がトシエに笑いかけている。部屋の壁には高校の友人たちから寄せ書きされた色紙が飾られ、埃で汚れるのを避けるためビニールシートで覆っているが、日の光にさらされて色褪せてきている。時の流れを否応なく知らしめるものでもあった。

「ノブヒロのことをみんなまだ覚えてくれてるかしらね。」

トシエが呟いた。ノブヒロは25歳になる。同級生も成人して、社会人としてそれぞれの道を歩んでいることだろう。息子だけがただ一人、別世界に取り残されている思いが強く、

「どうしてノブヒロだけがこんな目に・・・。
 どうしてうちの子が・・・。」

と、事故以来、どこにぶつけていいかわからない憤りを抱え続けてきた。事故による賠償などより、元の息子を返してほしいと加害者に訴えたが、それが叶わないことは嫌でもわかっているだけに、叫べば叫ぶほど虚しさと絶望感が広がるばかりだった。

トシエは介護士の手を借りながら息子の世話をしてきた。自らも更年期障害の真っただ中で、のぼせで汗がたえず噴き出る上に、うつ気分にもなる。いつまで息子を看てやれるのかと将来への不安も募る。

もしあの事故さえなければ、今頃ノブヒロは大学に進学して就職していたか、あるいは好きなサッカーを続けていたか、それとも好きな女性とお付き合いしていただろうかと想像した。そのたびに、どうして息子がこんな目に合わなければならなかったのかという思いに戻ってくる。それを振り払って、トシエは無言でいる息子につとめて話しかけ、体をさすってやったりしていた。

無表情ではあるが、心地よいかそうでないか、母親のトシエにはなんとなく息子の機嫌はわかる。それが彼女にとってもささやかな喜びに繋がっていた。

ベッドの傍に置いてある椅子を引き寄せ、トシエは老眼鏡をかけると朝刊を拡げた。何月何日何曜日と必ず日付から、そして記事を読み上げる。息子に聞かせるためでもある。悲惨な事件や事故については寡黙になった。

一枚一枚紙面をめくり、スポーツ欄になった。ノブヒロはサッカーをしていたが、スポーツ全般何でも興味のある男の子だった。プロのアスリートたちは華やかに活躍している裏で、想像できないような苦労も努力もしているのだ、だから自分も見習ってへこたれて弱音を吐いたりしないのだと、かつて生き生きと息子は語ったものだった。

プロ野球の勝敗、完封した投手のインタビュー、国際大会での日本の水泳選手の活躍、それから次の紙面をめくるとサッカーの記事が全面に載っている。

サッカー選手たちの写真を見ては、部活をしていた頃のノブヒロと重なる。トシエもよく試合には応援に出かけて行って声援を送ったものだ。

他のスポーツの記事を読むよりはゆっくりとサッカー関連の記事を読み上げた。毎日読み聞かせているうちに、サッカーのどのチームのこともトシエ自身が詳しくなったと思う。それに、ノブヒロと小さいころからサッカーをしてきた仲間の一人がプロのサッカーチームに入団して活躍している。今朝の新聞にも数行だが記述されていた。その部分をゆっくりとノブヒロに聞かせてやるトシエだったが、内心ではやはり複雑な思いでいた。ノブヒロだって目指せたのではないかと考えてしまうのだ。

そして、苦笑する。親バカなのは自分でわかっている。それでも我が子の可能性に期待するのは親だからだ。今や可能性を期待することはできなくなり、ただいつか息子が目覚めてくれることだけを信じて時を費やしている。サッカーができなくたって、息子と話ができる日がくればいいと願っている。が、心の奥底で、なぜ我が子だけがというわだかまりは消えない。夢も希望もあったあの頃と比較して、理不尽な思いが膨らむ。試合に臨む選手の記事を読むたびに、嫉妬かあるいは羨望の思いを強くしてしまう。

新聞を一通り読み終え、メガネをはずし、息子を見た。胃につけられたチューブから栄養を摂取してはいるが、逞しかった体格がやせ細り、その代り、成人男性の顔立ちになっている。その目は瞼を開けたまま、ベランダの外に向けられている。ぼんやりと見ているのではなく何か興味を持って視線を送っているように感じたトシエは、椅子から立ち上がり、ベランダに近づいた。

ガラス窓の向こう側にしなやかな動きをする黒いものが存在していた。

「あら、また来たの。」

トシエが頬を緩ませて、話しかけた。一匹の黒猫が家の中を窺っていたのである。長い尻尾をゆらゆらと振って挨拶しているふうに見える。

「クロちゃんが来たわよ、ノブヒロ。」

黒猫と息子とを交互に見てトシエが言った。毎日ではないにしろ、黒猫がときどき塀を伝ってノブヒロの家のベランダまでやってくるようになっていた。クロちゃんとはトシエが勝手に付けた名前だ。

「一体どこのおうちの猫かしらね。
 首輪がついているし、毛並も手入れされてるみたいだから、
 飼い猫だと思うんだけれど。」

トシエが重ねて言った。不思議なことに、機嫌の良し悪しくらいの雰囲気を伝えてくることはあってもあまり表情を表さないノブヒロが、黒猫の訪問だけは関心があるのか、意味ありげな視線を猫に向けている。そうトシエは感じていた。

トシエ自身はもともと生き物は好きな方ではなかった。だが息子が、黒猫を見てうっすらと反応を示すのを見て取って、小さな訪問者を歓迎する気になった。窓を開けてやると、人懐こい黒猫はにゃおんと一鳴きして、ゆっくりと中に入った。トシエがしゃがんで猫の頭や首回りをそっと撫でてやると、気持ちよさそうに目を細めている。

そしてこわごわ猫を抱き上げ、ノブヒロのベッドに近づいた。わずかにノブヒロの眼球が動く。猫をじっと見ているのだ。それはとても優しい眼差しのような気がした。

ノブヒロの上掛け布団の上にタオルを敷いて、そこに猫を置いてやると、猫はその上でくるくると回り、何度か足踏みしてから落ち着いた。まるで旧知の間柄のように、猫は警戒する様子も見せず当然のようにその場に座り、ノブヒロは物言わずとも何か語りかけているのではないかと思えた。黒猫一匹がいることで、変化のない時間に柔らかい刺激があった。

トシエが猫じゃらしの代わりにエプロンの紐を黒猫の前に差し出してやると、体をうねらせ、紐にちょいちょいと触れていた。その様子が愛らしく、見ていて飽きることがなかったが、ほんの15分くらいすると黒猫は立ち上がり、前脚を軸にぐーっと伸びをした後、ゆっくりとベランダ側に向かって歩き出した。

「もう帰ってしまうの。
 クロちゃんも忙しいのね。」

トシエが猫の背後から声をかけると、猫の両耳がひょこひょこと反応して動く。一度だけちらりと見返り、黒猫は細く開けられたままのガラス戸の隙間を抜けてベランダへ、そして、ベランダの柵の間をくぐり抜けて塀伝いにどこかに行ってしまった。

そのすぐ後、インターホンの音が響き、訪問看護の看護師かヘルパーが来たのだろうと、トシエは慌てて部屋を出て、階下へ降りた。トシエが玄関の扉を開けると、そこには予想外の女性が立っていた。看護師やヘルパーにしては服装が違う。ちょうどノブヒロと同じくらいの年齢だろうか。すると、女性がぺこりと頭を下げて、ノブヒロを訪ねてやってきたがこの家で間違いないだろうかと言った。そうだと答え、トシエはまじまじと女性を眺めると、どこかで見覚えがあるような気がした。

「あのう、私、ハスミ・ユカリと言います。
 高校時代にサッカー部のマネージャーをしてました。」

最初は遠慮がちに、だが、はっきりした口調で女性が言った。それを聞いてトシエは、ああと声を上げた。ノブヒロの勉強机に立ててある写真立ての一つを思い出した。そこには、高校時代のサッカー部員全員が写っていて、もちろんその女性も写っていた。ノブヒロが元気でいた頃の最後の、サッカー部員との大切な一枚だった。

「まぁ。すっかり大人のきれいな女性になって・・・。
 すぐには思い出せなかったわ。」

トシエが正直に言うと、ハスミは照れて恥ずかしそうにした。

ハスミは、ノブヒロの事故のときに、幾度か病院に見舞いに来てくれたことがあったが、家を訪ねるのは初めてで、サッカー部だった部員から住所を聞き出して来たのだと説明した。

「似たようなおうちがあるので迷ってたんですけど、
 たまたま黒猫がこちらのベランダから出てきたのに出くわしたんです。
 表札を見たら、ノブヒロ君のお宅だったので、
 黒猫ちゃんが教えてくれたみたい。」

トシエに家の中に招き入れられたハスミは興奮気味だった。二階のノブヒロの部屋に入ると、それも一変した。覚悟はしていたつもりだが、部活でピッチを走り回っていた彼とはすっかり面変わりしていることに、少なからずショックを受けたのだ。それをトシエには気づかれまいと、何気ないふうを装って、横たわるノブヒロのベッドの傍にやってきた。

「久しぶりね、ノブ。
 あたし、ユカリよ。覚えてる?
 元気そうで安心した。」

その言葉が適切だったかどうかはわからない。が、ハスミは顔を近づけ、つとめて明るく声をかけた。

「ノブヒロが嬉しそうにしてるわ。」

トシエがそう言った。ハスミもノブヒロに歓迎されてる感じを受けた。

ノブヒロを前にハスミは、簡単に近況を話した。彼女自身のことだけでなく、彼女が知りうる限りのサッカー部のメンバーの高校卒業後のことも伝えた。進学してサッカーを続けている者、一般企業に就職してサッカーとは縁遠くなってしまった者、それでもひいきのプロサッカーチームのサポーターとして応援に駆け付けている者、みんなそれぞれの道を歩んでいる。

トシエはハスミに、付き合っている素敵な彼氏がいるんでしょうと尋ねてみると、結婚を前提に付き合っている人がいると照れ臭そうに答えが返ってきた。トシエは喜んでみせたものの、やはり心のどこかで、ノブヒロだけが時間の流れから取り残されていく寂しさを感じずにはいられなかった。

(ダメね。どうしてもひがんでしまう。)

トシエは素直に祝福できない自分を嫌悪した。もしもノブヒロがあの事故に合わなければ、もし彼の怪我が大したことなく軽くすめば・・・。幾度も去来する仮定法過去完了は、決して前向きな未来に導いてはくれない。しかし熾火のようにくすぶり続ける。トシエが苦しむのはそこなのだ。

トシエの心情を知ってか知らずか、ハスミは訪問したほんとうの理由を話し始めた。それはさっきトシエが新聞記事を読み聞かせていた、ノブヒロとともにピッチを駆け巡ったことのある選手についてだった。

「彼、去年、試合中に膝の靭帯損傷で全治2ヶ月の怪我をしたんです。」

「ええ、スポーツ欄の記事で読んだことがあるわ。
 やっと復帰してスタメンで活躍してるようね。」

トシエに言われてハスミは頷いた。

「怪我の治療中、ずっと焦ってたみたいです。
 治ると医者にも言われて、
 自分自身も何が何でも治すと気丈にしてても、
 ひょっとしてもうピッチに立てないんじゃないかって、
 不安に襲われてたそうなんです。
 そういう気の小さいところがあるんだって、自分で言ってました。」

「彼に実際に会ったの?」

詳細に語るハスミにトシエが訊いた。

「いえ、たまにケータイで連絡するくらいで、
 それも彼がプロになってからは遠慮してたんですけど、
 入院してるときに電話で話したんです。」

と、ハスミが答えた。

(ああ、ケータイ。
 仲間同士で番号やアドレスを教え合って、
 ずっとつながりを保てる時代なんだものね。)

トシエの胸がまたちくりと痛んだ。そこには息子は入っていないのだと。だが、こんな些細なことを気に病むなんてどうかしてると思い直し、ひそかに苦笑した。

「夜、病院のベッドの上で、
 彼はノブのことをよく思い出したんだそうです。」

ハスミの言葉に、トシエが我に返った。ハスミはトシエからノブヒロのほうに向いて語りかけた。

「一緒にサッカーをやってた頃、
 ノブには教えられたことも励まされたことも
 いっぱいあった・・・って言ってたよ。
 仲良かったもんね。

 口喧嘩もいっぱいしたって言ってたな。
 あたしもマネージャーだったから気づいてたけどさ。」

そこでハスミはふっと思い出し笑いをした。

「いい蹴りをする足を持ってるのに一瞬迷うのが悪い癖だって、
 ノブが核心ついたところを言うものだから、
 喧嘩になってたのよね。

 だけど、ノブ、試合前に、こう言ったんでしょ?
 
 ”俺がアシストするから、
  迷いなくゴールに突っ込んで行け!”

 そのときのニヤッと笑ったノブの顔が、
 今もずっと心に焼き付いてるんだって。」

傾斜したベッドに横たわるノブヒロがじっと耳を傾けて聞いている。そんな様子に見えた。トシエにも頼もしかった高校時代の息子の姿を容易に思い浮かべることができた。

「ノブが事故にあって、サッカーができない体になったとき、
 自分がノブの分までがんばるんだと心に誓って、
 念願のプロのチームに入団できた。

 でも、怪我して戦線離脱。
 ベッドの上で過ごしてる間に気づいたそうよ。
 ノブの分までがんばる・・・だなんて、
 おこがましかったって。」

ハスミが語るのをトシエも興味深く聞いていた。

「”ノブは、寝たきり状態になってからずっと
  がんばり続けてきたんだ。
  今だってノブは戦い続けてるんだ。
 
  あいつが中途で諦めるわけねーよ。
  そんな奴じゃない。
  俺よりもっと長いこと、辛さに耐えてるんだ。
  俺もノブに負けてられないよな。”

 そうしみじみ言っていたわよ。」

猫が去ってしまった後も少し開けたままになっていたガラス戸から、ひんやりとした風が吹き抜けてきた。トシエは戸締りをするため窓に近づき、ハスミに背を向けたまま涙ぐんだ。

「おかげで足の怪我も治って、
 リハビリやトレーニングを経て、
 彼はまたチームに戻れた。

 ”ノブが心の支えになってきて今の自分がある。
  離れていても、話すことができなくても、
  ノブがアシストしてくれてたんだと思えた。”

 ・・・・・ですって。
 あたしは今日それを伝えにきたの。」

ハスミはそう言いながら、手を伸ばし、ノブヒロの白く細くなった腕に触れた。トシエはノブヒロが寝たきりになって以降、世間から置き去りにされた気持ちを抱き続けてきたが、こうして昔の仲間が忘れずにいてくれていることを知ると、胸が熱くなった。

「ありがとうね、わざわざ伝えにきてくれて。」

涙声でトシエがハスミに言うと、

「おばさん、あたしもノブは今も静かに戦ってると思うの。
 いろんなことを考えて、たぶん何か葛藤もしてて、
 話したいこともいっぱいあるんだろうな。
 ノブはすごく明るくて大らかだったけど、
 人一倍努力してたのを知ってるから。

 だからね、おばさん・・・・・。」

その先を言いかけて止め、探るような眼差しでハスミはノブヒロの顔を注意して見つめた。ノブヒロの目元がうるんでいる。心なしか、ハスミが触れていたノブヒロのか細い腕にはわずかに力が込められているのを感じた。

「おばさん、ノブはちゃんと私の話を聞いててくれてるわ。」

歓喜の叫びのようにハスミが声を上げると、トシエも息子の傍に駆け寄り、息子の名を呼んだ。ノブヒロの目頭から一筋の涙がこぼれ、その眼球がしっかりと母親に向けられ、ゆっくりと、またほんの少しだが、首を縦に振る動作が見られた。これはたとえわずかな反応であっても、今の今までなかった、待ち焦がれた奇跡だった。

ハスミの訪問を受け、ノブヒロが8年の時を越えて自らの意志を示したあの日から、主治医や看護師に報告と相談をし、内容を改めたリハビリが開始された。トシエはこれまでよりずっと手ごたえを感じている。きっと息子は良くなっていく。

「ノブヒロはハスミさんが言ってたように、
 8年の間、自分の体と戦ってきたのね。
 もどかしかったろうね。」

傍らでトシエが息子に呼びかけた。そして、我が家だけ取り残されてきたなどと僻んでいた自らを戒めた。トシエだけが時の流れに逆行していたのだ。ノブヒロは諦めていなかった。

習慣になっている新聞の読み聞かせをしながら、部活の仲間たちのことに思いを馳せた。みんなそれぞれ悩みを抱えて克服しようとがんばっている。どうして気づかなかったのだろう。どうしてみんなはうちよりも幸福なはずだと考えてきたのだろう。なぜうちだけが不幸だなどと思い込んできたのだろう。トシエの中から暗く深い霧が取り払われていった。

そのとき黒猫がまたベランダに現れた。ここは黒猫のお散歩ルートの一つになっているのだろう。トシエが部屋に入れてやると、黒猫はあたりを見回しながら、ベッドにぴょんと飛び乗ると、横たわるノブヒロの腿のあたりに座った。ノブヒロが優しい眼差しで、猫のしぐさに見入り、手を動かそうとしているのかわずかに肩が揺れた。

よく見ると黒猫の体には何枚かの小さな花弁がそこここについていた。

「あらあら、どこをお散歩してきたの。」

トシエが猫の背を撫でながら、花びらをとってやった。淡いピンクの花びらだ。ふとベランダの外に目をやった。街中にある広い公園はいつのまにかピンクの靄がかかったように桜の木々が花を咲かせていた。桜の木はどれほどの力で花々をを咲かせるのだろう。トシエは、黙って多くの花を開花させる桜の木の底力に感心し、また息子の内なる思いとを重ね合わせた。

ベランダの窓から流れる空気は春の陽気を伝えてくる。黒猫は甘えるように喉をごろごろ鳴らして、ノブヒロの体の上でくつろいでいた。


    
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ジャンル : 小説・文学
テーマ : 自作小説

[ 2015/03/30 01:58 ] ≪黒猫お散歩通り≫ | TB(-) | CM(-)